はじめに。

さて。

世の中のものには可逆と不可逆のものがあって。

思うに、知るということは不可逆の最たるものだと思う。

経験する、とか言い換えてもいいかも。

 

ひとつの器の水とお湯は、加熱と冷却によって行ったり来たり。

一方、混ぜてぬるま湯を作ればお湯と水に分けることはできない。

そういう風に言うけれど、二つの器にまた分けて、然るべき処理をすればもとに戻すことは可能だ。

 

そういう屁理屈が通じないレベルで、知る、という現象は不可逆だと思う。

一度知ってしまえば。

愛情であれ、憎悪であれ。

知識であれ、知恵であれ。

真実であれ、虚構であれ。

快楽であれ、苦痛であれ。

主観であれ、客観であれ。

重要であれ、些末であれ。

それを知らなかった頃には、そう簡単には戻れない。

忘れる、だなんて狙ってできるものではない。

メンインブラックじゃあるまいに。

 

何かの縁で「知って」曰く、記憶は消えることはなく思い出すことができなくなるだけなのだ、という。

喩えるなら、本から目次がなくなるみたいに。整備された道がなくなるみたいに。

簡単にそこに辿り着くことはなくても、偶然か必然か、きっかけさえあればそこに辿り着けるのだとか。

その引き金は、あるいは景色、あるいは音、あるいは匂い、あるいは味、あるいは行動、あるいは、あるいは、エトセトラは、いくらでも。

人間は、ふとした拍子に、思い出してしまう生き物だという。

少なくとも、僕はそうだ。

 

 

前置きが長くなったけれど。

この文章はつまりそういう、二度と戻れない「知らない」を記録するためのものだ。

 

 

この初めての文章は、ブログを知らない僕が書く最後の文章になる。

これから毎日更新するのか、この文章を書き終えて数年たって次のエントリになるのかは知らないけれど、ともかくこれを書きあげてアップロードをした時点で、僕はもう自発的に行うブログを、ほんのひとかけらであっても、知ってしまうことになる。

 

そうなる前に、

まずもって僕が何を思ってブログを書くのかとか、

僕はブログに何を思っているのかとか、

そういうことを記録しておくべきだと思った。

知らない僕には二度と戻れないのだから。

 

 

本当に長くなった。

後に推敲を重ねて前後するのかもしれないが、この時点で885字。

悪い癖だ。

 

 

都合よく数分前数行前の僕が問題提起をしてくれたので、それに今の僕は乗っかろうと思う。

 

「なぜ始めようと思ったのか?」

最初に思い浮かぶのは、やはり記録のためだろうか。

記憶というのはいつだって移ろうもので、感情は風化するものだ。

灼熱の憤怒もいずれは鎮火するし、

あるいは清流の記憶も滞留して穢れるかもしれない。

そういうことを否定はしない。

自己編集と自己防衛を行ってこその人間と思うこともできるけれど、

だけど、でも、だからって感情を変質させていくことが、僕にとっては怖い。

今の、僕にとっては。

だから、せめて記憶を記録したい。

 

もう一つ、先のセンシティブな思いと真逆のプラグマティブな考えだが、

単純に文章力を上げたいと思ったからだ。

僕には何も取り得がない、などと悲劇の主人公めいて思うことはあるけれど、

僕以外から見れば文章力は、語彙力は、表現力は、それなりのものらしい。

とはいえ、それで飯が食えるわけでもあるまい。

ともなれば、せめて今あるその小さな武器を、なんとか鍛えていくほかないだろうと思ったりする。

 

たった一つの武器を振るって文筆業で生きていきたいというのは正直な欲求だが、それがそう簡単な話ではないことは十数年以上前から知っている。

それを知っていて何の努力も研鑚もしてこない自分が悪いのは重々承知なのだが、せめてもの足掻きと筆を執った、もといキーボードを叩いた次第である。

 

欲求と回顧の話は、またいずれにしておこう。

どうしようもなく脇道にそれる指と舌と脳で困る。

 

 

「私はブログについてどう思っているのか?」

おそらくはこれが本題で、今から考察しなくてはいけない部分だと思う。

私が最初に触れたのは、多分中学生のころだったかな。

そのころの友達が、個人でやっていたんだと思う。

個人でというけど、往年のテキストサイトのように自分ですべてを組んでいるのか、何かしらのサービスの中で行っていたのかは、正直わからない。

どうでもいいこと。

とにかく、私にとっての原体験はたぶんそこ。

ブログって、自分を語るところかもしれないし、自分の好きなコンテンツを語るところかもしれない。

その子にとっては、半々というよりは自分の生活の話だった印象かな。

私は、ちょっとだけすごいなって思った。真似しようとは思わない範囲で。

あの頃の私はネットとかに本当に疎くて、たまに閲覧する程度だった。

 

それからしばらくして、今度は持ち回りのブログを書くことになる。

所謂メンバーブログ、というようなもの。

これの記憶はあまりない。そこをすぐに抜けたからね。

反りの合わない人間関係は捨てるに限るし、思い出さないに限る。

 

最後に直近といっていいのか、とあるラジオ番組のブログと、声優さんと、ネットユーザーさんのブログを観るようになる。

先述の二つがピンポイントの数か月に対して、こちらは時間軸的にながーく偏在している。やっぱり誰が書くかは大事ってことね。

 

ブログって、畢竟日記で、だから気に入った人の日常を見るのが一番だもの。

内容よりも看板なのかもね。

高校に上がってその子の比重が減ったから見なくなった。

自分が参加した過去があっても、観る価値は消えうせた。

更新頻度が遅くても、その人、番組が好きだから訪れる。

つまり、そういうこと。

 

そういう意味では私のこの文章なんて、哲学めいていてその実浅瀬だから内容が居の人なんてこなさそうだし、私の知り合いしか来ないのかもしれない。

 

ネットではそういう油断が命取りだから、気を引き締めてはおくけれど。

 

はてさて、また少し話がずれた感があるわ。

「私がブログに思うこと」という題に還ると、結局記録でしかない。

もちろん、テキストサイトやブログを通じて時代を作った人がいることは知ってる。

そのあたりはオモコロの記事に詳しいことが書いてあったから読んでね。

omocoro.jp

 

 

えーと……。

さっきのリンクからテキストサイトを巡ってたら

空は雲が多くなってきたし、時計の針は何週かしたし、

書き終わったらご飯って思ってたのに3時のおやつな時間が近くなっちゃった。

 

それほどまでに、人の練り上げた文章は人を魅了できる、ということだと思う。

私もそんな力のある文章を書けるようになりたいと思う。

魅力、気力、暴力、魔力、なによりも引力のある文章を。

 

人がものを表現するには、必要なことが二つある。

ひとつはインプット。もうひとつはアウトプット。

あらゆる日常と非日常を五感プラスアルファで自分の中に取り込むこと。

それはおおきなものを呑み込む力であり、小さな変化を見逃さないこと。

自分の中にあるものを、時にあるがままに、時に味付けし発信すること。

柔軟で冷静な客観性と、創造的で想像的な主観性をいつも両立すること。

 

大げさに言ったけれど、要は観察と表現。

これらをより良い形にするためには、回数を重ねて訓練するほかはないと思う。

そのためには、日常の少しずつを書いて・見れるブログは格好の練習場じゃないかな。Twitterもいいけど、あれログを遡るの面倒だしねぇ。一文も短いし。

 

 

結論として、著名人でもなんでもないブログなんてよほどのヘマをしない限り「自己満足」なんだから、記録でも記憶でも練習でも妄執でも、トライ&エラーでいくしかないんじゃないかな。

自己満足なら自分のローカル内に書き殴ればいいじゃない、とも思うけれど……まぁ、そこは思春期特有の構われたさっていうことで。

 

 

とにかく、今の僕はそう思う。

これ以上は、実際に書きつづけてみないとわからない。

もしかしたらとんだ物好きさんのコメントで新しい世界が開けるかもしれないし、僕の胃に穴が開くかもしれない。

誰も目に留めず、僕ですらも忘れ去るかもしれない。

 

さて、どうなることやら。