最近の政情について思うこと。

政治がらみの話。

詳しく書く内容は決めてないけど、おそらくキナ臭くなるし口も悪くなるので、ことによれば不快になるのを承知おいてもらおう。

 

最初に立場だけ述べておくと、「昨今の防衛重点の動きに賛成」に片足を突っ込んでいるくらいだと思ってもらいたい。

 

さて、本題。

 

自衛権とか、憲法解釈とか、装備の拡張とか、そういうことには常に反対っていう人が出てくる。

曰く、若者を経済的に徴兵する、とか。

曰く、貴方の隣人が戦地に行く、とか。

曰く、戦争の片棒を担がせるな、とか。

曰く、軍需で儲けようとする悪、とか。

曰く、他国に尻尾を振っている、とか。

曰く、大戦前の政治と同じ流れ、とか。

曰く、国民に問わないのは駄目、とか。

それぞれに論拠も論調も違えど、ともかく多くの人が2015年初夏現在の防衛風潮を批判している。

 

自分の頭で考えてるかは不明だが、少なくともツイッターのトレンドに割り込むアカウント数分は、こうして批判の構えをしているわけだ。

その多くを、あえて一括りにして言いたい。

 

馬鹿じゃねぇの。

 

馬鹿じゃねぇの。

 

お前ら全員馬鹿じゃねぇの?

 

お前らは幼少期にいじめられたことはないのか。理不尽に嫌われたことはないのか。意味もなく暴力の災禍に呑まれたことはないのか。謂われなく抽象されたことはないのか。白い目で揚げ足を睨まれたことはないのか。

 

何が言いたいかっていうと、弱者が強者と渡り合うには力を得るしかないってことだ。言論ははっきりいって無駄だ。無意味だ。言葉手繰りして生きてきたからこそ言うけど、言葉は力を持たない。疲弊した人ひとり救えない。

そんな武器以下振りかざして何が世界平和だ。何が非暴力防衛だ。米軍と憲法に守ってもらう気か?馬鹿言ってんじゃないよ。

 

力こそすべてとは言わないし、むしろ世界は言葉と心を以て幸福になるべきだとは思うけど、だからこそ「そんな理想論掲げてる最中にブン殴られたらどうするの?」って思わざるを得ないわけだ。

 

忘れるな。履き違えるな。先に殴られたら終わりなんだ。だから戦えるポーズだけでも整えないと、傍若無人な隣人に殺される。それは小学校の教室でも、国際外交でも同じなんだ。

 

ポーズだけですらとらないなら、それは焼け野原になっても文句は言えないよな。

 

子供の喧嘩なら「いじめられた方が悪い、というのは暴論で、いじめた方が断罪されるべき」と先生が学級会で説けばいい。(解決するとは限らないが)

だが国際間で人死にが出てから、甚大な経済・文化・その他もろもろの被害が出てから「向こうが悪い!」って言っても、生き返ったりしないぞ。瓦礫の山で何を叫んでも、飢え死にするだけだってわからないわけないよな?

 

防衛は、予防こそ最前最良なんだよ。金の根回しも、大国と手をつないでも、言論で誤魔化しても、結局殴りたくないと思わせるだけの地力の防衛力がないとリングに上がる前にミサイルで焼かれて終わるんだよ。

 

もちろん、説明不足の感は否めないと思う。はっきり言ってこの点は擁護出来ん。

だがその説明不足を逆手にとってプロパガンダ的煽動材料にするのは下品としか言えないよな。無知なものを不安に駆らせるのは、どちら側でも醜悪だ。

無知なものは、それはそれで醜悪だ。

 

総合すると、今ネットを見てもテレビを見ても新聞を見ても何を見ても聞いても、大半が醜悪なんだ。綺麗な論理も、整然とした理屈も、実は存外なかったりする。

そんなものを見せられて、子供は政治に興味を持つわけないだろう。

野次の飛ばし合いをして、瑕疵の暴きあいをして、ホームルーム以下の様相を呈している政治家や運動家に興味を持つわけないだろう。

その繰り返しの終着点は、紛れもない民主主義の死、衆愚とデマゴーグの政治ごっこである。現在の政治は、それにもうなりかけている。

人気取りの政治。相手を攻撃する政治。パフォーマンスの政治。詭弁と煽動の政治。

知ろうとしない参政。印象だけの参政。模倣の参政。甘そうな水に誘導される参政。

こうなったとき、有権者たる若者は責められるべきではないと思う。

何故って、子供は大人を見て育つから。「無能な有権者」は「無能な有権者と政治家」を見て育ったのだから。

 

さて、ずいぶんと話が逸れてしまった。安保政策の話をしていたはずだったが、政治全体に突っ込んだな。

これを読んで、あなたが何を思うか知らない。

賛成かもしれない。反対かもしれない。中立するかもしれない。何も思わないかもしれない。

だが二つだけ確かなことは、その想ったことを発信しようとしても、暴漢に襲われたら無に帰すし、発信方法が感情的に過ぎればただの発狂者として吐き捨てられるということだ。

 

最後に、ふわふわした内容で批判っぽいことをしておいて明確な解決策を指摘しない筆者が一番の卑怯者である、ということを指摘して、筆をおく。

青が目にいたい。

どーも、徹夜明けです。

 

昨夜は普通じゃない会社説明会に行ってきました。

 

普通じゃなかった。なんだあのミュージカル。

 

興奮と狂騒は帰ってからまとめ直そう。

 

そこから一夜明けた今はホテルにいます。

 

格安のホテルっていえばわかるのかしら。

 

で、あたしは結局徹夜しました。てっちゃんちゃん。

 

出たり入ったり、観光してみたりレポート書いたり。

 

おちつかないものよねぇ。

 

で、今は二日連続突貫ツアーの二日目ということで、受付までの時間を潰しています。

 

とりあえず昨日のことを思い返して書いてみようか。

 

とにかく、タノシイは正義だな、と。

 

カワイイとかスシとかハラキリが世界共通語になるなら、そのうちジャパニーズタノシイもなっていいんじゃないの、というのはあくまで音の並びでだけかな。

 

楽しいっていう感情は何よりも優先されるべきだ、とは言えない世の中なんだけど。

 

あたしはそういう生き方をしたいかなぁ。

 

その楽しいが仕事によるものでなくてはならぬとは思わないけど。

 

さて、スーツ着用の今日はどうなることやら。

 

はたしてちゃんと帰れるのかしらね?

 

神の味噌汁。

 

東京に出てきてもう一つ思ったんだけど、人の脈の埋まり具合がすごい。

 

詰まり具合?眠り具合?

 

あっちもこっちもそちらさまも、なんだかんだ東京近郊だからその気になったら会えるかもなんだよね。

 

会えるとは言っていない。

 

そーなったとき、あたしは誰を優先するのかしら。

 

それは神すらシラスでしょ。

 

そのときのあたししかしらない。

 

そんな贅沢な状況になることを祈っておくわ。

 

ねむいわぁ。

 

気を引き締めていかなきゃなのにね。

 

さて、時間つぶしと称してカタカタ打っていたらやっと672字。

 

前回に比べてペースがボロボロなのは考えごとの真っ最中だからかな。

 

単純に眠いせいかなぁ。

 

どれでもいいや。

 

今も書いてもいいけれど、今後のために書くお題を決めておこうかな。

 

思いつかない。3秒のお題目返上。

 

しかし本当に眠いな。

 

目を閉じて何秒で寝られるかは、何時間経てば起きるかのタイムアタックに直結するらやめておこう。

 

いくら体が眠たがっても、意志力で起きなくてはならないのだ。

 

つらい。

 

三大欲求の土台たる睡眠を誰が我慢できようか。

 

説明会で寝るか遅刻するほど寝るかの二択なら、今ここで少しだけ寝るのが得策よね。

 

さて、1分弱目を閉じただけで夢を見るくらいには何かあったみたいね。

 

思うところはたくさんあるけれど、いろいろ考えるには足りない。

 

崩れそうにもなったし、このあたりでやめておきましょう。

 

あぁ、晴天ですこと。

 

目がいたい。

はじめに。

さて。

世の中のものには可逆と不可逆のものがあって。

思うに、知るということは不可逆の最たるものだと思う。

経験する、とか言い換えてもいいかも。

 

ひとつの器の水とお湯は、加熱と冷却によって行ったり来たり。

一方、混ぜてぬるま湯を作ればお湯と水に分けることはできない。

そういう風に言うけれど、二つの器にまた分けて、然るべき処理をすればもとに戻すことは可能だ。

 

そういう屁理屈が通じないレベルで、知る、という現象は不可逆だと思う。

一度知ってしまえば。

愛情であれ、憎悪であれ。

知識であれ、知恵であれ。

真実であれ、虚構であれ。

快楽であれ、苦痛であれ。

主観であれ、客観であれ。

重要であれ、些末であれ。

それを知らなかった頃には、そう簡単には戻れない。

忘れる、だなんて狙ってできるものではない。

メンインブラックじゃあるまいに。

 

何かの縁で「知って」曰く、記憶は消えることはなく思い出すことができなくなるだけなのだ、という。

喩えるなら、本から目次がなくなるみたいに。整備された道がなくなるみたいに。

簡単にそこに辿り着くことはなくても、偶然か必然か、きっかけさえあればそこに辿り着けるのだとか。

その引き金は、あるいは景色、あるいは音、あるいは匂い、あるいは味、あるいは行動、あるいは、あるいは、エトセトラは、いくらでも。

人間は、ふとした拍子に、思い出してしまう生き物だという。

少なくとも、僕はそうだ。

 

 

前置きが長くなったけれど。

この文章はつまりそういう、二度と戻れない「知らない」を記録するためのものだ。

 

 

この初めての文章は、ブログを知らない僕が書く最後の文章になる。

これから毎日更新するのか、この文章を書き終えて数年たって次のエントリになるのかは知らないけれど、ともかくこれを書きあげてアップロードをした時点で、僕はもう自発的に行うブログを、ほんのひとかけらであっても、知ってしまうことになる。

 

そうなる前に、

まずもって僕が何を思ってブログを書くのかとか、

僕はブログに何を思っているのかとか、

そういうことを記録しておくべきだと思った。

知らない僕には二度と戻れないのだから。

 

 

本当に長くなった。

後に推敲を重ねて前後するのかもしれないが、この時点で885字。

悪い癖だ。

 

 

都合よく数分前数行前の僕が問題提起をしてくれたので、それに今の僕は乗っかろうと思う。

 

「なぜ始めようと思ったのか?」

最初に思い浮かぶのは、やはり記録のためだろうか。

記憶というのはいつだって移ろうもので、感情は風化するものだ。

灼熱の憤怒もいずれは鎮火するし、

あるいは清流の記憶も滞留して穢れるかもしれない。

そういうことを否定はしない。

自己編集と自己防衛を行ってこその人間と思うこともできるけれど、

だけど、でも、だからって感情を変質させていくことが、僕にとっては怖い。

今の、僕にとっては。

だから、せめて記憶を記録したい。

 

もう一つ、先のセンシティブな思いと真逆のプラグマティブな考えだが、

単純に文章力を上げたいと思ったからだ。

僕には何も取り得がない、などと悲劇の主人公めいて思うことはあるけれど、

僕以外から見れば文章力は、語彙力は、表現力は、それなりのものらしい。

とはいえ、それで飯が食えるわけでもあるまい。

ともなれば、せめて今あるその小さな武器を、なんとか鍛えていくほかないだろうと思ったりする。

 

たった一つの武器を振るって文筆業で生きていきたいというのは正直な欲求だが、それがそう簡単な話ではないことは十数年以上前から知っている。

それを知っていて何の努力も研鑚もしてこない自分が悪いのは重々承知なのだが、せめてもの足掻きと筆を執った、もといキーボードを叩いた次第である。

 

欲求と回顧の話は、またいずれにしておこう。

どうしようもなく脇道にそれる指と舌と脳で困る。

 

 

「私はブログについてどう思っているのか?」

おそらくはこれが本題で、今から考察しなくてはいけない部分だと思う。

私が最初に触れたのは、多分中学生のころだったかな。

そのころの友達が、個人でやっていたんだと思う。

個人でというけど、往年のテキストサイトのように自分ですべてを組んでいるのか、何かしらのサービスの中で行っていたのかは、正直わからない。

どうでもいいこと。

とにかく、私にとっての原体験はたぶんそこ。

ブログって、自分を語るところかもしれないし、自分の好きなコンテンツを語るところかもしれない。

その子にとっては、半々というよりは自分の生活の話だった印象かな。

私は、ちょっとだけすごいなって思った。真似しようとは思わない範囲で。

あの頃の私はネットとかに本当に疎くて、たまに閲覧する程度だった。

 

それからしばらくして、今度は持ち回りのブログを書くことになる。

所謂メンバーブログ、というようなもの。

これの記憶はあまりない。そこをすぐに抜けたからね。

反りの合わない人間関係は捨てるに限るし、思い出さないに限る。

 

最後に直近といっていいのか、とあるラジオ番組のブログと、声優さんと、ネットユーザーさんのブログを観るようになる。

先述の二つがピンポイントの数か月に対して、こちらは時間軸的にながーく偏在している。やっぱり誰が書くかは大事ってことね。

 

ブログって、畢竟日記で、だから気に入った人の日常を見るのが一番だもの。

内容よりも看板なのかもね。

高校に上がってその子の比重が減ったから見なくなった。

自分が参加した過去があっても、観る価値は消えうせた。

更新頻度が遅くても、その人、番組が好きだから訪れる。

つまり、そういうこと。

 

そういう意味では私のこの文章なんて、哲学めいていてその実浅瀬だから内容が居の人なんてこなさそうだし、私の知り合いしか来ないのかもしれない。

 

ネットではそういう油断が命取りだから、気を引き締めてはおくけれど。

 

はてさて、また少し話がずれた感があるわ。

「私がブログに思うこと」という題に還ると、結局記録でしかない。

もちろん、テキストサイトやブログを通じて時代を作った人がいることは知ってる。

そのあたりはオモコロの記事に詳しいことが書いてあったから読んでね。

omocoro.jp

 

 

えーと……。

さっきのリンクからテキストサイトを巡ってたら

空は雲が多くなってきたし、時計の針は何週かしたし、

書き終わったらご飯って思ってたのに3時のおやつな時間が近くなっちゃった。

 

それほどまでに、人の練り上げた文章は人を魅了できる、ということだと思う。

私もそんな力のある文章を書けるようになりたいと思う。

魅力、気力、暴力、魔力、なによりも引力のある文章を。

 

人がものを表現するには、必要なことが二つある。

ひとつはインプット。もうひとつはアウトプット。

あらゆる日常と非日常を五感プラスアルファで自分の中に取り込むこと。

それはおおきなものを呑み込む力であり、小さな変化を見逃さないこと。

自分の中にあるものを、時にあるがままに、時に味付けし発信すること。

柔軟で冷静な客観性と、創造的で想像的な主観性をいつも両立すること。

 

大げさに言ったけれど、要は観察と表現。

これらをより良い形にするためには、回数を重ねて訓練するほかはないと思う。

そのためには、日常の少しずつを書いて・見れるブログは格好の練習場じゃないかな。Twitterもいいけど、あれログを遡るの面倒だしねぇ。一文も短いし。

 

 

結論として、著名人でもなんでもないブログなんてよほどのヘマをしない限り「自己満足」なんだから、記録でも記憶でも練習でも妄執でも、トライ&エラーでいくしかないんじゃないかな。

自己満足なら自分のローカル内に書き殴ればいいじゃない、とも思うけれど……まぁ、そこは思春期特有の構われたさっていうことで。

 

 

とにかく、今の僕はそう思う。

これ以上は、実際に書きつづけてみないとわからない。

もしかしたらとんだ物好きさんのコメントで新しい世界が開けるかもしれないし、僕の胃に穴が開くかもしれない。

誰も目に留めず、僕ですらも忘れ去るかもしれない。

 

さて、どうなることやら。